ワシントンD.C.の地下42メートル。
国家安全保障局(NSA)の量子演算施設「EAGLE KEY」には窓がない。時刻も、天気も、外の世界の何も伝わってこないよう設計されている。それはセキュリティのためだが、エイミー・チェンには別の理由があるように思えてならなかった。外を見たら、躊躇うから。
「成功です、チェン博士」
アシスタントのリャン・ジュンが振り返り、白い歯を見せた。モニターには緑の数列が滝のように流れている。量子ビット数、4,096。エラー訂正率、0.003%。理論値を超えた。
3年と7ヶ月。エイミーが費やした時間が、この瞬間に収束した。
「……確認して」
「もう三回確認しました」
「もう一回」
リャンが苦笑しながらキーを叩く。エイミーは椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。コンクリートの染み。数えたことがある。全部で17個。
隣の部屋からシャンパンの開く音がした。
同じ夜、ホワイトハウスの執務室。
ドナルド・マーカス大統領はテレビの前に立っていた。音声はミュートにしてある。画面の中では経済アナリストたちが口を動かしている。その背後のティッカーに、数字が流れていた。
BTC:$48,200,000
マーカスは口の端を上げた。
「信じられるか、フランク」
首席補佐官のフランク・ドーソンが無表情のまま答えた。「何がですか」
「4800万ドルだ。一枚で。俺が最初にこれを買えと言った時、お前は何て言った?」
「……ギャンブルだと」
「そう。ギャンブルだと言った」マーカスはテレビの電源を落とした。「だが俺には見えていた。これは通貨じゃない。砦だ。どの国も、どの銀行も、手が届かない場所にある砦」
彼は窓の外に目を向けた。夜のワシントン。白く光る記念碑。
「サトシのコインを我々が持つ。アメリカが保護する。そうなればBTCはゴールドを超える。持っている者は全員、勝者になる。中国に先を越される前にな」
ドーソンが一歩前に出た。「EAGLE KEYから報告が上がっています。本日、理論値に到達しました」
マーカスはゆっくりと振り返った。
「72時間後に決行だ」
エイミーがビットコインを知ったのは2013年、大学院の寮の小さな部屋だった。
暗号理論の教授が授業の最後に言った。「面白いものがある」と。
ホワイトボードに走り書きされた論文タイトル。Bitcoin: A Peer-to-Peer Electronic Cash System。著者名、サトシ・ナカモト。
「誰ですか、これ」と誰かが聞いた。
「わからん」と教授は笑った。「それが面白いんだ」
エイミーはその夜、論文を6回読んだ。数式よりも、思想に打たれた。信頼を、コードで置き換える。銀行も、政府も、顔も名前も必要ない。数学だけが保証する、純粋な約束。
あれから14年。その約束を破るための機械を、自分が作った。
施設の廊下を歩きながらエイミーは端末を開いた。
明日の午前9時、マーカス大統領への報告。その72時間後、標的ウォレットへのアクセス試行。スケジュールはすでに確定している。もう止まらない。
自室に戻り、ジャケットを脱いだ瞬間、端末が震えた。
NSAの内部ネットワーク。緊急アラート。
差出人:不明
受信者:EAGLE KEY 全端末
エイミーは眉をひそめた。全端末への同報など、システム管理者以外には不可能なはずだった。
メッセージを開く。
エイミーの指が止まった。
The Times 03/Jan/2009。
それはビットコインの最初のブロック——ジェネシスブロックに刻まれた言葉だった。2009年1月3日のロンドン・タイムズの見出し。サトシが「なぜビットコインを作ったか」を、たった一行で示した、あの言葉。
bailout。銀行救済。
14年前に刻まれたメッセージが、今夜、自分に届いた。
エイミーは廊下に飛び出した。
「リャン!」
「どうしました——」
「このメッセージの発信源を今すぐ追って。全リソース使っていい」
リャンが端末を見た。見た瞬間、顔色が変わった。
「……チェン博士」
「何」
「発信源の特定、できません」
「なぜ」
リャンはゆっくりと振り返った。
「このメッセージ……NSAの内部ネットワークじゃなくて」
一拍。
「ビットコインのブロックチェーンから、直接来ています」
その夜、世界中のビットコインノードが同じメッセージを受信した。
暗号コミュニティのフォーラムは騒然となった。技術者たちがメッセージを解析し始め、誰かが気づいた。
メッセージの各行の最初の文字を縦に読め。
エイミーは夜明けまで眠れなかった。
端末の画面を見つめながら、ひとつの問いが頭から離れなかった。
サトシは——ずっと、待っていたのか。
この日のために。この瞬間のために。
〔第1話「GENESIS」了〕